チェンバロ奏者 八百板正己 のホームページ

チェンバロ日誌(2005年7月)

チェンバロ日誌
7月2日(土)
 昨日は毎月開催のチェンバロライブの初日、 私にとってもこの種の経験は初めてでした。 結果として、通常の演奏会よりもとても和やかな気持ちで演奏できました。 リクエストコーナーのようなお客様と対話しながら進めていく形式は、 あらかじめこちらでプログラムをしっかり決めておくのとは違って、 お客様も演奏に参加しているかのような親密な雰囲気がありました。
 以前にも何度か「ワイン飲み放題〜チェンバロのBGMとともに」的な企画で演奏を依頼されたことがありましたが、 その種の企画では悲しいことに大抵の日本人は払った金を回収すべく呂律が回らなくなるほど飲みまくり、 演奏開始3分で会場は大騒ぎになってチェンバロの音は最前列の人にも聞こえなくなったのでした。
 しかし昨日は全く違いました。 そもそも決して安くはないフルコースまたはハーフコースの料理を食べるのが主目的とあって、 演奏が始まる前からお客様は会場の落ち着いた雰囲気を楽しみながら静かに会話を楽しんでいらっしゃり、 BGMの演奏を始めてもそのままの良い感じで進めることができました。 会場全体が醸し出す雰囲気がその場の人々を一回り大人にしたというか、 弾く側も聴く側もいつもと少し違う自分になってひとときを共有することができたような気がします。 会場の雰囲気は大事なんだなと再認識した一日でした。
7月12日(火)
 昨日の夜、見附チェンバロスタジオで秘密の集会が行なわれました! 私のほかに私と同じくらいチェンバロにはまってしまった男性二名が集まり、 立派なオーディオを持ち込んで問題提起的なチェンバロのCDを一緒に聴いて、 21世紀のチェンバロのあり方などを議論しようという怪しい会です。 議論は深夜にまで及び、回り回って「縄文人と弥生人」などといった話題にまで飛び火しました。 私と同じくらいチェンバロにはまっていないと参加できませんので、 当分は新しい人の入れない「秘密の集会」状態が続くのではないでしょうか。
7月23日(土)
 このたび、新潟県内の古楽関係者がほとんど参加する画期的なイベントが開催されることになりました。 内容を記したWebサイトがありませんのでチラシの内容を「今後の演奏予定」のページに転載しましたが、 その分量の多さに改めて驚いてしまいます。 入場定員130人のりゅーとぴあスタジオAに、 チェンバロなど鍵盤楽器が8台、管楽器等の展示が数十台、出演者が25人ですから、 普段の演奏会とは違い主催者側の存在感がすごいことになりそうです。 チケットが売り切れるかもしれませんのでお早めに!
7月27日(水)
 チェンバロ教室の生徒さんから借りたDVDを昨日見ました。 2000年7月28日、バッハ没後250年の命日の夜にライプツィヒ市庁舎広場で行われた「スウィンギング・バッハ」というコンサートで、 名前が示すようにバッハがジャズのスタイルで演奏されているのです。 生粋のジャズグループからクラシックの金管アンサンブル、正統派ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団まで、 多種多様なメンバーが一同に会しています。
 正直言って、こんなに興奮するとは自分でも予想していませんでした。 バッハのジャズ風アレンジは決して中途半端な話題提供に終わるものではなく、 錚々たる名手たち(私は全く知りませんでしたが)のバッハに対する強い尊敬の念に満ちていました。 そしてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による編曲なしの普通のバッハと交互に演奏されても、 不思議に違和感を感じず、あっという間の2時間でした。 技巧性と芸術性と娯楽性が高い次元で調和しているのにも深く考えさせられました。
 いまだにこのようなアプローチを「バッハに対する冒涜」と見る向きも少なくないようですが、 先入観を排して聴くならばそんな風には感じないはずなのにと私は思います。 もちろん、聴き手がジャズの語法に全く慣れていなかったり、 たまたま演奏者のレベルが低かったり、 または純粋に好みの問題で感銘を受けないということはあるでしょうが、 そのことでバッハのジャズ風アプローチの芸術的価値がないというのは短絡でしょう。 古い音楽を新しい音楽が借用することが冒涜ならば、 バッハがミサ曲ロ短調でグレゴリオ聖歌の旋律を借用したのも (中世の教会旋法による聖歌をバロックの和声に適合するために元の旋律の音符を1ヶ所入れ替えすらしています) 同様に教皇グレゴリウスI世に対する冒涜になってしまいます。 もしかしたら、クラシック音楽を他ジャンルの音楽が借用したのが許せないのでしょうか? そういうのは感情的な欧米礼賛であって、 ジャズがバッハを借用する前からジャズの存在を劣ったものとみなし、 同様に日本の伝統音楽やインドの古典音楽なども真面目に聴きもしないで劣ったものだと言うのかもしれません。
 また「聴衆を楽しませることを目指すものは娯楽であって芸術ではない」との意見も耳にしますが、 それならば教会で信者のために演奏されたバッハの受難曲は芸術だけれど劇場で入場料を取って演奏されたヘンデルのオペラは芸術ではないのかとか、 能は芸術だけれど狂言は芸術ではないのかとか、この種の話は収拾が付かなくなりそうです。 そもそも私は芸術と娯楽は相反する概念ではないと思います。 落語家も人間国宝に認定されましたし。
 娯楽性ということでいえば、実は私の理想の演奏会像はこうです。 「ああ楽しかった。笑えるトークもあって寛げた。美しい音楽に心が休まった。」 「ところで、聴き手をこんな風に喜ばせてくれるなんて、実はすごい実力の持ち主だったんだね。」 芸術性や精神性の押し付けは大抵のお客様には重荷でしょう。 もちろん、力の無い人がそれをごまかすために「受け狙い」に走るようなのは聴きたくありませんが、 力の無い人が反対にあたかも精神性が高いかのように近付き難い態度で振舞うのも滑稽です。
 いまだ発展途上の私がチェンバロで演奏するバッハよりも、 そのDVDでジャズの名手がアレンジしたバッハのほうがはるかに芸術性が高かったというのが、 残念ながら真実であると白状しなければなりません。


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