チェンバロ奏者 八百板正己 のホームページ

チェンバロ日誌(2006年3月)

チェンバロ日誌
3月3日(土)
 昨日は指揮者の樋本英一(ひもとひでかず)氏を新潟に招いての指揮法講習会に参加してきました。 鍵盤楽器を弾くことはいくつもの独立した声部を同時に歌わせ、まとめ、一人で音楽全体を作り上げることですから、 実際に指揮台に立って棒を振るということはなくても、 指揮者が務まる能力を身に付けることは必要だと常々感じていたのです。
 まだ私がアマチュアだった頃に参加していた栃尾の団体の演奏会の中で、 即席のアマチュアオーケストラを結成してパガニーニのヴァイオリン協奏曲を振ったのが唯一の経験でした。 それまでもチェンバロを弾きながら少人数をまとめるのはかなり経験を積んでいたのですが、 さすがに初顔合わせも含むフルオーケストラを棒一本でまとめるのは大変で、 奏者のほうから「2拍目はきちんと左に、3拍めはきちんと右に振ってくれないと分からん!」と文句が出る始末でした。 そのときは練習時間もたくさんあったので必要なことはいちいち口で伝えましたが、 自分で音楽が分かっているだけでは人に伝えられないのだと痛感したものです。
 近いうちに私が指揮棒を振らなければいけない演奏会があるわけでもないので、 本当は棒の持ち方や基本姿勢から習いたいと思ったのですが、 いきなりとんでもない曲で受講することになってしまいました。 夏に行われる新潟古楽フェスティバルで私自身も歌いながら8人の声楽アンサンブルをまとめる予定があることを講習会関係者に話すと、 「どうせならその曲を受講すべきだ」ということで話が進んでしまったのです。 その曲とは、ルネサンス時代のア・カペラの宗教音楽「バード作曲:アヴェ・ヴェルム・コルプス」です。 この時代の宗教音楽はグレゴリオ聖歌の直接の子孫といえる音楽の最終段階に位置するもので、 何といっても小節の観念がなかったことが大きな違いです。 拍子も2拍子系と3拍子系の違いはあっても小節の観念がないのですから、 バロック以降の音楽のように「1拍目を重く、他を弱く」ということがありません。 その上ですべての(この曲の場合は4つの)声部が完全に対等に独立した旋律を絡み合わせながらゆったりと進んでいきます。 いきなりこんな曲をどうやって振ればいいのでしょうか?
 なお受講者はそれぞれピアニストを一人連れてきて、 自分の指揮に合わせて演奏してもらうことになっています。 私はチェンバロ教室の発表会にも参加した方(合唱団のピアノ伴奏の経験が豊富です)にピアノをお願いしましたが、 合唱用の4段のスコアを見ながらそれをピアノで弾くのはさぞご苦労なことだったでしょう。
 受講の結果、この曲の振り方を一言で言えば「振ってはいけない」でした。 拍を示すのでなく、歌の息の流れの持って行き方を示すだけでいいのです。 細かい音符があっても、それを手の動きで指示してしまうと歌が流れないといいます。 すべての声部が別々の動き方をしていますから、 それぞれの声部で息の流れの重要なポイントを次々と示していくのです。 昔小学校で習った「何拍子のときの腕の動かし方」は全く使わず、 胸の前で両手でボールを持つように構えて(これを歌い手の肺に見立てるということだと思うのですが)、 それを膨らませたり、上げたり下げたり、前に出したり手前に引いたりします。 それをするにはもちろん自分ですべての声部を歌いながら(少なくとも歌うのと同じ息のしかたで)、 その自分の息の流れを導くように手を動かせたときに、 ピアニストの弾く音楽が不思議なほど美しく流れる奇跡を体験してしまいました。
 これを今後自分がチェンバロを弾くときにも実践できればどんなに素晴らしいことでしょう! ポリフォニーを弾くとはこういうことだったのかと気づかされました。
3月17日(金)
 9日から13日までの5日間、ピアノの勉強に行ってきました。 魚沼市の小出郷文化会館で毎年行われて10年になる講習会です。 講師はドイツのマンハイム州立音大のルドルフ・マイスター学長で、 一流の演奏家であるだけでなく卓越した教育者です。 プロの演奏家を目指すコースのほかにピアノ指導者のためのコースもあって、 家内がそれを受講するのをきっかけに私も聴講することにしました (ちなみに家内のピアノ演奏を自宅以外できちんと聴くのは初めてのことです)。 日頃チェンバロ教室で教える生徒さんにピアノの先生が少なくないこともあり、 チェンバロとピアノの演奏技術や解釈について、 何が同じで何が違うのかをはっきりさせることによって、 チェンバロのレッスンをより効果的にできるようになればと思ったのが受講の動機です。
 5日間朝から夜までカンヅメになってピアノのレッスンを聴講した甲斐あって、 とても多くの収穫がありました。
 マイスター学長は特に一音一音に対して多彩な音色を使い分けることに徹底する方で、 あまり上手く弾けない受講生にも粘り強く音色を操る技術を指導していました。 ピアノという楽器を少し真面目に勉強した人なら、 「大きい音は硬い音色を持ち、小さい音は柔らかい音色を持つ」ことは自明のこととして知っています。 しかしそれだけでなく「大きくて柔らかい音、小さくて硬い音、大きくて暗い音、小さくて明るい音、大きくて軽い音、小さくて重い音」 を自在に操れなければならないというのですから大変です。 これらの技術の多くは日本の音大のピアノ科でも教えてもらえないような高度な技術だそうで (音大出身の受講生が口をそろえてそう言います)、 日本の音大を出ただけでは本場の音色を出せるようにならないと言われるのも嘘とは言えないかも知れないと思いました。
 そしてその高度な技術はチェンバロで多彩な音色を使い分ける技術に共通する考えの所も多いのに驚きました。 楽器の仕組みが違うので出発点となる技術はチェンバロとピアノでは大きく違うのですが、 上を極めていくと似てくるのは「人間の手を媒介にする」という共通点によるのでしょうか。
 解釈についても、チェンバロなどバロック音楽特有だと思っていたことがずいぶんロマン派のピアノ曲でも行われていて驚きました。 ロマン派といえばフレーズを長く長くとってたっぷりレガートに歌うことを重視するものですが、 その中でも2小節や4小節といった短いフレーズごとに強弱の山をかなり意識的に表現させる指導でした。 結果として、長いフレーズをただ大きな声で朗々と歌うだけでなく、 語りにも似た細やかな抑揚感が加わることでリート(歌曲)を聴いているような気持ちになったのです。
 受講生の演奏では楽譜と取り組んでいるそのことが表に表れてしまうのですが、 マイスター学長の模範演奏(ほんの数分なのですが)はまるで作曲家自身が乗り移って弾いているようで、 作曲家が一音一音に託した激しい感情がひしひしと伝わってきて何度も涙が出てしまいました。
 ピアノの音色を聴き分ける耳が敏感になったのも収穫でした。 多くの受講生がそれぞれ独自の音色を持っているものですが、 それらがマイスター学長に次々と直されていきます。 納得いくまで繰り返し繰り返し指導されるのを聴き続けるうちに、 「ああこれは硬すぎる音だ」「これは重すぎる音だ」というように、 次に何を指導されるのかの予測ができるほどになりました。 その敏感になった耳で6日ぶりにスタジオに戻ってチェンバロを弾いてみて驚いたのは、 チェンバロの音色に対しても2倍くらい敏感になっていることでした。 今はプラスチック製の爪を鷲の羽に交換する作業が途中なのですが、 交換した所とまだの所の違いが気になって仕方がありません。
 音楽そのものへの感性もこの5日間ですっかり敏感になってしまいました。 こうして文章を書いていてもBGMのつもりで流している音楽にすっかり気を取られて、 さっぱり筆が進まないばかりか感動で涙が出てきてしまうのでBGMは諦めました。
 「ピアノとはどういう楽器なのかを知ろう」という目的を期待以上に達成しただけでなく、 「音楽とは何なのか」を垣間見たような、充実した5日間でした。
3月28日(火)
 日曜に東京に行って古典舞踏研究会に参加してきました。 チェンバロのレパートリーには他の楽器以上に舞曲が大きな割合を占めますが、 それらをリアルに演奏するにはやはり実際に踊りを知らないといけません。 近年はメヌエットやガヴォットといったバロック時代の宮廷舞踏の講習会は地方でも時折開催されますが、 ルネサンス舞踏をきちんと学ぶにはやはり東京に行かなくてはなりません。 この日は16世紀にイタリアで出版された舞踏書を翻訳しながらそれを実際に踊ってみるというアカデミックな内容でした。 今年の夏にはこの講師の先生を新潟に招いてルネサンス舞踏の講習会を企画しますのでお楽しみに!
3月31日(金)
 寒さがまだ続きそうでかわいそうなので、 外に出した植物たちをまたスタジオの中に戻してあげました。 先のほうの葉っぱはしおれてしまいましたが、 本体は枯れないで助かりました。
 さて、NHK教育テレビの「フランス語会話」が来週から新しい講師でスタートするので、 テキストを買って予習を始めようと思い、講師のプロフィールを読んでびっくり! 「趣味はチェンバロ」とあるではありませんか! 「チェンバロ」という単語に「ピアノ発明以前の鍵盤楽器」などという注釈が無いところを見ると、 この単語は音楽関係者以外にも通用するようになってきたということ。 嬉しいですね。 私自身は今でも時々「それはヴァイオリンの大きいやつか?(それはチェロです!)」とか 「バチで弦をたたくやつか?(それはツィンバロンです!)」とか聞かれますが。


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