チェンバロ奏者 八百板正己 のホームページ
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| 2台目の楽器 |
(このページは2000.05.12に作成し、2001.01.10と2003.06.06と2005.05.13に一部補足しました。)

| モデル | フランドル様式2段鍵盤(ルッカース拡張モデル) |
| 製作 | 久保田彰 2000年3月 |
| 寸法 | 長さ2470mm、幅910mm、本体厚さ285mm |
| 重量 | 本体55kg、脚7kg、椅子9kg |
| レジスター | 8'+8'+4'、バフストップ |
| 音域 | FF〜f3、61鍵 |
| ピッチ | a=415/440 可変 |
※ 用語などは「1台目の楽器」のページを参照下さい。
フランドルの名工であるルッカース一族が活躍したのは17世紀であり、
その時代の楽器は音域はあまり広くない代わりに明快な音色を持っていました。
久保田彰氏は数々の工夫を凝らすことによって、その音色の明快さを可能な限り保ったまま音域を広げることに成功しました
(楽器の大きさと反応の良さを両立させるのは大変なことです。ヴァイオリンとコントラバスを比べてみてもお分かりでしょう)。
その意味でこのモデルは過去に存在した楽器のコピーではありませんが、チェンバロの新たな可能性を開拓した意欲作です。
音域が広いうえに鍵盤が2段あるために、2m半ほどの長さがあります。 しかしこれも私のワンボックスの軽自動車の助手席を倒せばちゃんと収まってしまうのです。 楽器の大きさと車の小ささを見比べた人は一様に「本当にこれに入るのか?」と疑い、 実際に収まるところを見るまで信じてもらえません。
私の1台目の楽器には無かった4'が備わっています。 また、2つの8'は2段の鍵盤にそれぞれ割り当てられています。 これらを組み合わせることにより、この楽器は都合6種類の音色を弾き分けることができます。
※一部手直しのために楽器を工房に運ぶ機会があり、その際に4'を単独で鳴らせるようにしていただきましたので、 音色は7種類となりました。(2001.01.10補足)
※8種類目の音色を見出しました。 上鍵盤の8'にバフストップを加えたところに下鍵盤の4'を重ねるという特殊な使い方をすると、 およそ通常のイメージでのチェンバロらしくない、夢の中のような神秘的な音がするのですが、 なぜか誰も使ったのを見たことがないしCDでも聴いたことがなかったので、 てっきり「この音色は演奏に使うものではないのだ」と早合点していました。 ところが、最近のCDの中にこの音色を積極的に使っているものが複数の演奏家でみられ、 中期バロックのドイツ音楽で素晴らしい効果を上げていたので、 私も使うことにしました。(2005.05.13補足)
この楽器のもつ5オクターブという音域はチェンバロでは最も広い部類に入ります。
これで演奏できない曲は、私の知る限りではD.スカルラッティのソナタ数曲くらいではないでしょうか。
その数曲のためには高音側にもう2音必要になりますが、
それによって楽器が更に大きくなって音の明快さが損なわれるマイナスの方が大きい、
という久保田彰氏の助言に従ってこの音域に決めました。
※バロック後期スペインの作曲家ソレール(Antonio Soler 1729-1783)の作品にはかなりの割合でこの音が出てきます。 D.スカルラッティも晩年のスペイン時代の作品に数十曲この音を必要とするものがあります。(2003.06.06補足)
自分の趣味のために購入した1台目の楽器とは異なり、 今回の楽器は演奏会でお客様に見ていただくものなので可能な限り美しく装飾を施してもらいました。 その際、当時のルッカース工房の楽器に施された装飾の様式をほぼ忠実に踏襲しました。
本体外周には緑色の大理石模様が、あたかも本物の大理石が貼り付けてあるかのように非常にリアルに描かれています。
当時フランドルでは家具の装飾などにもこの大理石模様が描かれることがあったそうです。
実は久保田彰氏は初め画家を志していらっしゃったとのことで、このような装飾には氏の画才が存分に発揮されています。
弦が張ってあって振動する板を響板といいますが、ここには美しい花の絵が多数描かれています。
北ヨーロッパの人々が植物や動物、虫などに特別の観察眼を寄せたことはデューラーの銅版画などを見ても分かります。
チェンバロの響版に描かれた花の絵は当時の植物図鑑を下絵に用いたものが多かったそうで、
絵の様式も写実的ではなく説明的です。
美しいから描いたというより、関心があるから描いたといったところなのでしょう。
この花の絵に関しては特別に私のわがままを聞いていただきました。
楽器の完成が春ということもあって、私の住む越後の春を象徴する花を特に選んで描いていただいたのです。
雪国の春は一年で最も感動的な季節です。
選んだのは以下の花たちですが、片栗と菊咲一華以外は日本海側の積雪地帯にだけ生える特産種です。
| 越後雉子筵(えちごきじむしろ) |
| 大岩鏡(おおいわかがみ) |
| 大葉黄菫(おおばきすみれ) |
| 大三角草(おおみすみそう、別名雪割草) |
| 片栗(かたくり) |
| 菊咲一華(きくざきいちげ) |
| 白根葵(しらねあおい) |
| 姫小百合(ひめさゆり) |
もっとも、フランドル風にアレンジされているので実物とだいぶ違っているものもありますが、 「西洋人から見た異国風東洋の雪国の花々」と解釈して満足しています。
演奏会においてお客様から見て最も目に付くのが広い面積を占める蓋の裏です。
ここには木目の模様を印刷した紙が貼られ、その上にラテン語の格言が書かれています。
次に説明する唐草模様もそうですが、模様が印刷された紙を貼るというのは決して安っぽい手抜きなどではありません。
当時の印刷物はとても高価なもので、しかも一枚一枚手で刷ったのでとても味わいがあります。
フランドルのルッカース工房は当時ヨーロッパ中に楽器を輸出する大工房でしたので、
安定した品質の装飾を大量に施すのに役立ちました。
ラテン語の格言は「音楽は神の贈り物」および「音楽は喜びの友、悲しみの薬」
という意味のものを書いていただきました。
鍵盤周りの3面の壁は唐草模様で埋め尽くされています。
これも紙を貼ったもので「ルッカースペーパー」という名前まで付けられていますが、
最もルッカース工房のチェンバロらしい装飾といえるかもしれません。
久保田彰氏はこれを一枚一枚手刷りで作り、当時の味わいを再現しています。
鍵盤は当時と同じく、白鍵は牛の骨を、黒鍵は黒檀の木をそれぞれ貼り付けてあり、
演奏者側の端面には装飾模様をプレスした革が貼ってあります。
なお、チェンバロというと鍵盤の色が白黒逆なものとお思いの方も少なくないかもしれませんが、
ルッカースのチェンバロは現在のピアノと同じ色でしたので、そのとおりに作っていただきました。
ギターやヴァイオリンと同様に、チェンバロの響版にも穴が1ヶ所空いていて「サウンドホール」と呼ばれています。 ここには製作家のイニシャルをあしらった鋳物の装飾物が埋め込まれています。
フランスのヴェルサイユ宮殿で用いられたチェンバロの脚はクネクネと曲がって彫刻も施されて優雅ですが、
それに対してルッカース工房の脚は北ヨーロッパの気質を反映してか力強さを感じます。
太い材料、無駄のない構造、木目をそのまま生かした仕上げ。
一見簡素な意匠ですが、上に乗る楽器本体の美しさを実によく引き立てますし、
それでいて本体に見劣りすることなく存在を主張します。
その他にも細部まで実に細かい配慮が行き届いています。
たとえば、見えるところのねじをすべてマイナスねじにしてあるのは、
当時のヨーロッパの技術力ではプラスねじを製造することができなかったことに基づいています。
また、脚の部材を結合するナットもルッカース工房のものに基づいて四角ナットを特注したそうです。
1999年4月24日と25日、私は山梨県甲府市で行われた第13回古楽コンクールのチェンバロ部門に出場しました。
その予選での使用楽器3台のうちの1つに久保田彰氏の5オクターブのフランドル様式チェンバロが指定されていました。
23日の午後に予選使用楽器の試奏時間が出場者1人あたり15分間だけ与えられていて、
これが私とこの楽器との運命的な出会いの瞬間でした。
通して演奏すると1時間はかかるコンクール課題曲をたった15分しか試奏できないので、
その場でできることは楽器の音の特徴を把握してレジスターを選択する(どの曲をどの音色で弾くか)などの限られたことだけですが、
久保田氏のその楽器は鍵盤のタッチがこれまでに弾いたどの楽器よりも自分を受け入れてくれるというのが強い印象でした。
このコンクールには多くの楽器製作家の方々が20台以上のチェンバロを展示されていて別に設けられた展示会場で自由に試奏できます。 予選使用楽器は残念ながらそうはいかないのですが、 予選使用楽器の試奏が終わった私は展示会場で他のいろいろなチェンバロを試奏する一方で、 そこにいらっしゃった久保田氏にさっそく楽器のことでいろいろお尋ねしました。
24日は予選です。初めての出場で緊張していた私はステージ上でのことはよく覚えていませんが、 自分の演奏が終わって他の人の演奏を聴く側に回ってみて驚きました。 久保田氏の楽器の音の美しいこと! 特に上鍵盤の8'は例えようもなく美しく、この場がコンクールであるということを忘れさせてくれるほどでした。
翌25日は本選で、予選で落ちた私は開放された気分で気持ちよく本選出場者の演奏を楽しみました。
本選では展示会場の楽器も使えるとあって様々な2段チェンバロがステージに並んでおり、
久保田氏の楽器と他の楽器とを同じ条件で聴き比べられるチャンスです。
結果は前日の印象をますます強くするものでした。
とりあえず一度は受けてみないと始まらないと思って出場したコンクールですが、一つの大きな結論が出ました。
バロック後期の音楽を高いレベルで演奏するためには2段チェンバロを所有して日常的に演奏することが不可欠だということです。
いずれは欲しいと思っていた2段チェンバロですが、
何しろ2段チェンバロといえば300万円以上というのが相場です。
そう簡単に買える金額ではありませんから、意識的にその事を考えないようにしていた節もありました。
しかしもうそんな事を言っていられません。
次のコンクールは2年後ですので、今から注文して製作に1年かかるとすれば、
それから次のコンクールまでに1年あります。
1年あれば2段チェンバロの語法を自分のものにできるでしょう。
私は2段チェンバロの購入を決心しました。
コンクールの後の5月、6月は多忙で毎週のように演奏の本番があり、
チェンバロ購入のことで行動を起こせる状態ではありませんでしたので、
それが一段落した7月、いよいよ意を決して久保田氏の工房を訪問しました。
じつは「久保田氏は納期を守る数少ないチェンバロ製作家である」という評判を耳にしていたので、
次のコンクールを一つの目標に定めた私としては音の素晴らしさ、
鍵盤のタッチとの相性の良さを念のためもう一度確かめたらその場で製作を依頼するつもりでした。
ちなみに、製作家によっては何年待っても音沙汰なしという方もいるそうです。
工房でじっくり弾いてみると、思っていたより更に良い楽器のようです。
かくして商談は成立しました。
1999年7月12日のことです。
この5オクターブのフランドル様式は久保田氏にとっても大仕事だそうです。
製作の途中経過を撮った写真とコメントが何度か送られてきて、
「ベントサイド(本体側面のお客様側の曲がった板)のカーブの具合が今回は今までになく美しく完璧です」
などと有難いお言葉も頂きました。
また、私の希望で装飾などできる限りルッカースの様式に従ったので、
当初予定していたおしゃれな脚(久保田氏のお勧め)を途中まで製作されていたにもかかわらず、
「やはりルッカース様式の脚にした方がいいと思い直しました」
と連絡を下さって作り直すほど、心を込めて作っていただきました。
楽器は翌年3月の中旬に完成しました。
製作依頼から8ヶ月の短期間に5オクターブの2段チェンバロが本当にできてしまったのには感心です。
もうすぐ春の彼岸だというのに、私の家の辺りは道の両脇に人の背丈ほどの雪の壁がまだ残っていました。
雪道運転の経験がほとんどないという久保田氏に豪雪の越後まで来ていただくのは不可能という話になって、
私の方から埼玉の工房まで取りに伺いました。
その日のうちに家に帰り、楽器を降ろすのを手伝って下さった栃尾市公民館の方とささやかなお披露目をしました。
記念すべき2000年3月16日のことです。
最初に久保田氏の工房を訪ねた時にこれと同じ音色の楽器が欲しい旨をお話ししたところ、久保田氏は
「この楽器は完成以来3年あまり、
日本の一流の演奏家の方々がコンサートや録音のためにずいぶん弾き込んだ結果この音色に成長したのです。
新しく作ったばかりではこの音色は出ませんし、
あなたが3年間弾き込んだとしてもこれと同じ音色に成長するかどうか分かりません。
そのことを承知しておいて下さい。」
とおっしゃいました。
何と奥が深い世界!
たしかに完成品を受け取りに行ったときに工房で弾いた音は、
もちろんいい音ではありますがまだまだ乾いた、浅い感じがしました。
ところが、今この文章を書いている時点(2000年3月25日)で納品から1週間あまりが経ちましたが、
その間毎日のようにどんどん音に艶と深みと力強さが増してくるのです。
この調子で良くなっていったら一体どこまで成長するのだろうかと、少々恐ろしくなるほどです。
下手な人が弾くと楽器の音は良くなるどころか悪くなるという説もあります(本当でしょうか?)。
優れた楽器ほど弾き手の能力を正直に反映するということも耳にします。
この楽器がどのように育つかは私の腕次第。
大変なものを手に入れてしまいました。
久保田彰チェンバロ工房のページも是非ご覧ください。
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E-mail : yaoita@tochio.net
親切、迅速にお返事いたします。